友人と大阪で呑んだあと、赤ら顔で突撃したジュンク堂で購入した「『キング』の時代」。
購入した直後に「面白い」と上のブログでも書いていますが、ほんまに面白かった。なのにおっさんの読書力が低くて時間がかかったのが残念です。
ものすごく雑にいうと、戦前に発行部数100万部を誇った巨大大衆月刊誌であった「キング」。その「キング」を読んでいた大衆が戦前の日本の「国民」として国民化されていく様子、そこで「キング」が果たした役割を、「キング」の発行元である講談社の軌跡とともに描いたのが本書です。
冒頭「はじめに」で
第三帝国は「国民受信機(ルビ:フォルクス・エンプフェンガー)」によって「大衆の国民化」を推し進め、一九三九年九月二三日には「同化」不能とみなしたユダヤ人に対しラジオ所有禁止令が出された
との記述があるのですが、ドイツでラジオが果たした役割を代わりに受け持ったのが、面白くて、ためになる雑誌「キング」だと言えます(ラジオが「同化」の手段だとはっきり認識され家電である「ラジオ」の所有が禁止されているのが、いまのほほんとラジオアプリでラジオを聞いているおっさんには衝撃でした)。
ほしいものリストに入っている「ラジオの戦争責任」も改めて購入したいなと思いました。
他に当時のメディアについてガツンと衝撃をうけた記述としては、
P.293
(映画の)トーキー化には大いなる文明論的逆説が存在する。サイレント映画は「国語」を持たなかったので、そこで開発された「純映画的」技法、すなわちクローズアップやモンタージュなど視覚操作の文法には「国境」がなかった。そうした「国際性」によって、サイレント映画の国際市場は急速に拡大した。しかし、トーキー化は、各国の映画に自国語という「国境」を導入することになった。一九二〇年代におけるサイレント映画と国際協調主義、一九三〇年代のトーキー化とブロック経済体制は、その時代精神を反映したものである。(略)かくしてトーキー化とナショナリズムの亢進は同時進行しており、
という文章も、サイレントで映像しかフィルムに乗っていなかったのが、トーキーになり映像と音声がフィルムに乗るようになったのを単純に「技術の進歩で良いことだ」と思っていたおっさんには衝撃でした。
おっさん、著者の「大衆宣伝の神話」も持っているのですが、おっさんには難しくて未読になっているのですが、再度挑戦してみたくなりました。
この「大衆宣伝の神話」で著者が博士号を取っている、つまり博士論文が書籍(文庫)にまでなってることに再度びっくりしました。
あと「『キング』の時代」の第Ⅱ部のタイトルは「『キング』の二つの身体」というタイトルなんですが、これは「王の二つの身体」のもじりだなと思い、以前から欲しかった「王の二つの身体」を電子書籍で購入してしまいました。
「あとがき」で本書の補遺にあたると書いている「言論統制」も再読したいものです。おっさんはこちらを先に読んでおり、こちらもめちゃくちゃおもしろかった。
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