またしてもなかなか書けなくなっている読書記録。
今年は読んだその日か翌日に読書記録を書こうと目標を立てていたのに、枝葉が広がり、思考が拡散してうまく書けなくなってしまいます。
それはさておき。
再発した三国志熱を背景に手持ちの三国志の本がないので、後漢書の後漢末の本紀(皇帝についての記録)部分を読んでみました。
一番意外だったのは、何皇后紀の
家はもともと屠殺業者であったが、選ばれて掖庭に入った。(P.356 )
との記載(「掖庭」を打つのに大変苦労しました)。
てっきりあまりおこないの芳しくない何皇后やその兄である何進を貶めるための「三国志演義」の虚構だと思っていたのですが、事実なんですね。同じページの三行後に
性格は凶悪で、後宮で震え上がらぬものはなかった。
と書かれているぐらい素行が良くなかったから、やっぱり素行ゆえの誹謗なのかな。
次に驚いたのは、皇帝の位を降りた献帝は山陽公になりますが、その山陽公国が代々続いていっていること。
元の献帝、初代山陽公の劉協→劉康→劉瑾→劉秋
この最後の劉秋が永嘉年間(307~313年)に胡族に殺されて山陽公国は廃止になったとあるので、西晋の間も維持されて、永嘉の乱で犠牲になったのかな。
通して初代の劉秀(光武帝)から読みたいとは思ってるんですけどね。
5月15日:タイトル修正