「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

おっさん、「トランスボーダー 和歌山とアメリカをめぐる移民と美術」展を観覧する

明日から急激に寒くなるそうなので、灯油を買いに行かねばと思いつつ、朝から雨が降ったり止んだりで憂鬱なおっさんです。

 

 

それはさておき。

先日記した「明恵上人伝」展を見たのと同じ日に、隣に建っている和歌山県立近代美術館にて「トランスボーダー 和歌山とアメリカをめぐる移民と美術」展を見てきました。

 

oldtypeossan.hatenablog.com

 

 

和歌山は多くの海外移民を輩出した県で、和歌山市民図書館には移民資料室があったりします。

 

wakayama.civic-library.jp

 

井上靖補陀落渡海についての小説を読んで感心したおっさんは、「さすが和歌山、海の向こうに対する意識が高い」と思ったりもしますが、別に太平洋に面した県は和歌山だけではないので、なぜ和歌山から多くの移民を輩出したのか疑問ではあります。

 

 

太平洋に長い海岸線を持つ茨城県の沖合には、幕末に鯨油を獲得するための捕鯨船がたくさん来ており、物品の売り買いによる交流もあったと先般読んだ「尊王攘夷」に記されていたのですが、茨城県も海外移民が多かったりするのでしょうか?

 

 

(ちなみにメルヴィルの「白鯨」も舞台は茨城県沖の太平洋なのだそうです。

 ちなみにちなみにその捕鯨船が測量をしたりするのを「実は侵略が目的なのではないか?」との疑いが単なる思想を超えて、水戸藩が攘夷に走る原因なのだそうです。)

 

 

いらぬ前置きが長くなりましたが「トランスボーダー」展、すごく良かった。

 

 

一番印象に残った絵は、上山鳥城男氏がご自身のご夫人末氏を黒い洋装で描いた絵。

これ自体もすごく良かったのですが、並べて展示されていた着物(和服)での末夫人の絵が同じく黒地で着物の柄、帯の柄まできれいに描かれており、おっさんの私見では若干塗りも和服の方が丁寧なような気がして、日本とアメリカ、東洋と西洋、どちらにも足を置いている当時としては珍しい日本出身者の誇り、かつアイデンティティが現れているような気がしました。

 

 

あとは石垣栄太郎氏のボクシングを題材にした絵。

どこかでみたことがあるような気がするのですが、以前県立近代美術館に来たときに見たのか?、それか社会主義運動に傾倒したそうなので、プロレタリアート絵画の一点としてそれ系の本を読んだときに出ていたのか?その辺の記憶は定かではないのですが、惹かれるものを感じます。

 

 

絵以外にも日本の人たちがアメリカに向かう際に実際に用いたトランクが複数展示されていて実際にこれを携えて、海を渡っていったのだと思うと、これだけの物しか持たずに新天地に渡っていく人の勇気にグッときたり、

 

 

ロサンゼルスの近郊で漁師がビンナガマグロを捕り、それを婦人たちが働く缶詰工場で加工して「chicken of the sea」と名付けて売っていたとの展示があり、たくましさとともに「シーチキン」の元祖やなと感心したりしました。

 

 

おっさん一時期フィルムカメラで写真を撮るのを趣味にしていた時期もあったので、上山鳥城男氏が中心となった赫土社(しゃくどしゃ)がf/64の創設メンバーのエドワード・ウェストンを評価して交流があったとの展示にひどく驚かされました。

 

ja.wikipedia.org

 

まあ、おっさんもf/64については写学生の友人からちらっと見聞きした程度なんですけどね。

 

 

あとは日系人強制収容所についての展示。

ヘンリー杉本氏の「最後の決断」という絵は、やっぱり志願兵として戦う決意を固めたときなんだろうか?と想像したり、荒涼とした風景の収容所の写真に豊かさを突然断ち切られた無念さやるせなさを感じたりしました。

 

 

昔趣味としていた競馬で、サンタアニタ競馬場が収容所の一つとして用いられていたと知ったときはかなり驚いたもんです。とはいえ、実態としては全然知らないことが多いので展示を見ると心が痛みました。

 

 

というか、展示の最初から最後は強制収容所という結末が待っていることがわかっているので、もの悲しい気分で展示を見ていくことになるんですよね。

 

 

もちろん図録も買いましたよ。

満足感の高い展示だったので大事にしようと思います。

 

 

 

現在、日本に暮らしながら、洋服を着て、西洋的な文物に囲まれて、それを特段奇異とも思わずに暮らしているわたし。日本的な、東洋的な教養も薄く、それをさして悲しいとも思わないですが、「サムライ」だの「日本代表」だのといった言葉に敏感な人たちは西洋と東洋、和と洋に引き裂かれるような知的な悲しみを感じたりするのだろうか?

 

 

そういう「知的な悲しみ」を感じる知性を、ネトウヨを代表とするナショナリストたちに感じないのはおっさんだけでしょうか?