P.104
寿永二年七月に平家一門が西走し、八月に皇子・尊成(たかひら)が僭皇ではあっても一応天皇に擁立されると(後鳥羽天皇)、通親は夫の能円法師に置き去りにされた皇子・尊成の乳母の藤原範子に接近し、心細く生活している範子を妻に迎え、かつ彼女が能円との間に産んだ在子(ありこ、1171-1257)を養女とし、将来に備えたのであった。通親と範子の間に出来た通光ー後に太政大臣ーは、文治三年(一一八七)の出生であるから、二人の情交は遅くても文治二年には始まったのであろう。
()内のよみがなは引用者
これ、わざわざ「情交」っていう言葉を使う必要あるのかな?
角田文衛先生、この二人の関係にはいたくご執心のようで、上巻のP.48には
(能円の)『流人官符』の手続きをとった権中納言・源通親は、範子に対して野心を抱いていたから、彼の心は能円の流罪と言う奇貨に欣びを覚え、波立っていたことであろう。
なんて表現もあります。
待賢門院と白河法皇の関係を描いた「待賢門院璋子の生涯」の時のように徒に筆が走っているとの感を受けます。
きっと角田先生、背徳的な関係が好きなんでしょうね。