「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

DVDで「オール・アバウト・マイ・マザー」を見ました

熱はいったん下がっているかわりに、頭痛と腹痛がひどくて朝から何度もトイレに行っているおっさんです。菌を体から追い出そうとがんばってくれているんだな、きっと。

 

 

それはさておき。

先日、購入したと書いた「オール・アバウト・マイ・マザー」のDVD。

届いた次の休みの日あたりに見てみました。

 

 

 

 

ストーリーは思い出せなかったのですが、見ていると「ああ、こんな場面見たな」と部分部分は覚えている感じ。特にペネロペ・クルス演じる、シスター・ロサが実家の飼い犬サビオ?と公園で別れるシーンは、最初に見たときも美しいシーンだと思ったのですが、今回も良かったです。

 

 

でも、今作品とか「コレリ大尉のマンドリン」なんかでは清純可憐で少女っぽい弱々しさが感じられたペネロペ・クルスが、その後同じアルモドバルの作品「ボルベール」では強くて妖艶な女になっていて驚いたので、前回と今回では良さの感じ方が違う感じです。

 

 

 

で、作品全体からおっさんが何を感じたのかと問われると難しいのですが、作品内の大女優ウマ・ロッホが作中での自身の当たり役「欲望という名の電車」のブランチ役の台詞から「わたしはいつも見ず知らずの方の親切にすがって生きているの」みたいなことを主人公のマヌエラに口にするシーンがあります。

 

 

まさにこの言葉に象徴されるように、この作品の中で困っている人を助けるのは、家族とかではなく、ひさしぶりに出会った友人であったり、知り合って間もない他人なんですよね。

 

 

日本だとすぐ「家族同士で助け合い」みたいな話になって、それが美談になりがちですけど、みなさんにとって家族(特に血をわけあった肉親)ってそれほどいい存在ですか?

 

 

おっさんにとっては弟はともかくとして、それ以外は父も母も親戚もなんだか相容れなくて家族は助けてくれる存在ではなくて、「檻(おり」みたいな存在です。

 

 

なのでこの作品内での人間関係はいいなあと思いました。

じゃあ、監督のアルモドバルが家族を否定しているのかといえば、もちろんそうではなくて、タイトルが「オール・アバウト・マイ・マザー」ですもんね。

 

 

この所有格「my」が主格「I」になると誰なのか?は定かではないのですが、マヌエラの息子のエステバンとシスター・ロサの忘れ形見の三人目のエステバンの二人のタブルミーニングなんでしょうかね?

 

 

ただマヌエラの息子のエステバンにとっては、父親がどんな存在で誰なのかわからないことが自己のアイデンティティに影響していたように、肉親は自分を規定する存在で好ましいばかりの存在ではないと考えているのではないでしょうか?

 

 

でも自分を規定する存在から離れてみれば、自分から作れる人間関係がある、自分が助けたり助けられたりする存在になれるというのが、大人の人間関係のいいところなんでしょうね。だからバルセロナに向かったり、離れたりするトンネルは物理的な距離を表すとともに、子宮から出ることの隠喩、再生の意味を持っているのかな?

 

 

社会的な存在としての自分の再生。

でもマヌエラの息子のエステバンは、そこまでのおとなになる前に命がなくなってしまった。「三人目のエステバン」はどうなるかまだわからない、というところで物語は終わってしまったという感じでしょうか?

 

 

でも、ロラとかアグラードはなぜ女性形として生きることを選択したのだろうか?

そこは全く想像が及ばなかった。ロラは父であり母であり、タイトルの「マザー」はトリプルミーニングということなのだろうか?