きのう辺りから近所の田んぼのカエルがものすごい合唱で、「例年こんな時期に鳴いてたっけ?もっと早い時期(梅雨の前半)じゃなかったっけ?」と思っているおっさんです。
それはさておき。
実は、別に2冊ほど本を読み終えていて、順番があとさきになるのですが記憶の新しいうちにこちらの本を書いておきます。
前回読んだと書いた「はじめての日本古代史」の中で印象に残ったとして引用した下の文章。
日本は文(儒) 未確立の社会であったので、中国のように武や力を見下して徹底的に忌避するという思想が現われなかったという指摘もある( 高橋昌明『武士の日本史』)。中国や朝鮮では出現するはずもなかった武家政権が日本では現われ、しかもそれが七百年近くも存続したことの意味を、皆が考えるべきであろう。
「武士的なるもの」がその後の日本の歴史の主流となり、その歪曲されて増幅された発想、武士を善、貴族を悪とする価値観や、草深い東国の大地を善、腐敗した京の都を悪とする地域観が現代日本にまで生き続けることになったのである。
それに付け加えて考えるヒントとなるような文章が、今回の「中世社会のはじまり」の中にもあったんですよね。
浄土宗や禅宗、法華宗(日蓮宗)など新たな仏教運動は、日本人の身体に即していたことから今に繋がっており、日本人の信仰の大多数を占めているのである。
身体性は武家政権の成長と確立にも認められる。その後に長く続く武家政権は、この時代に日本人の身体に相応しく定着していった。多くの日本人と日本列島の独自性はこの時代に育まれたのである。(P.195)
ただ、「はじめての日本古代史」が武家政権が700年続いたことを他の東アジア諸国ではありえなかったこととして、やや否定的にとらえているのに対して、「中世社会のはじまり」は日本の独自性だからということで、中立というかそのまま流してしまっているんですよね。
それと物足りなかったのは、では「日本人の身体」性の特徴は、どういったものなのかという具体的な言葉が、おっさんの読み落としでなければなかったんですよね。まあ、自分で考えろということなのかもしれませんが、巻頭の「はじめに」の中で、
この時代に生まれた物の見方や慣習が現代とどうつながっているのか、どのような点で大きく違っているのかなど、改めて中世社会から現代社会を照射することも目指す。(P.ⅱ)
と言ってるし、巻末「おわりに」で
中世に生まれた思潮が現代にまで大きな影響を及ぼしていることである。その思潮の有する力が継承され、我々の今があるいっぽう、その思潮によって我々の考えが制約されているのも事実である。歴史に蓄積された力をいかにして発揮したらよいのか、逆にその制約からいかに自由になれるのか、考えてゆく必要がある。(P.241)
とここまで書くのなら、著者の考えでよいので「日本人の身体」性の特徴をズバッと書いてほしかったですね。
ネット上にあふれる「普通の日本人」。では「普通の日本人」の特徴はなんなのか?それを考える一助にもなると思うので、おっさん自身も「日本人の身体」また現代に影響を及ぼす過去の思潮について、もっと注意深く考える必要があるなと思います。
大きな抽象的な話は置いておいて、ほかに面白かったのは
清盛以下の大将軍が高松殿に帰参したところに、頼長が流れ矢に当たって死去したという報が入った。「日本第一ノ大学生」と謳われた頼長も、武士の力の上昇をよく認識していなかったことになる。
保元の乱の藤原頼長について書いた部分なのですが、これだけ藤原頼長について辛い評価なのに平治の乱で亡くなった信西については別段辛い評価はしていないんですよね。
その差はなに?と考えたときに
著作『院政期社会の研究』の中に「院政期政治史断章」という論文が収録されている。院政期の政治上の事件には、必ずといっていいほど男色関係が絡むことを強調したこの論文は、日本史を学ぶ学生の間で、画期的な「ホモ論文」として有名となっている。ただし藤原頼長の男色について触れたのは、東野治之「日記にみる藤原頼長の男色関係-王朝貴族のウィタ・セクスアリス」(『ヒストリア』1979)が先である。また五味は本書あとがきで、このことを知ったため院政期社会に興味を失った時期もあると記し、棚橋光男らの批判を受けている(『後白河法皇』)。
藤原頼長の男色を著者が快く思っていないから、厳しい評価なのかなと勘ぐってしまいます。
父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。
峻烈な性格でそれが忌避されて非業の死を遂げることになったけれども、勝敗は時の運の部分があるから、「知恵を称えられながら、その程度のことも見抜けないのか」的な結果を知っている者からの評価は厳しいなと思います。
おっさんは反対に、「はじめての日本古代史」の中の平城天皇を評した
平城としては、無駄を省き、官僚組織を効率化することを目指したのであろう。しかし、天皇は支配者層全体の利害を体現するために存在する。このような「やる気のあり過ぎる天皇」は、概して貴族社会から浮き上がり、やがて悲惨な末路をたどることになる。
との文章を思い出しました。藤原頼長は天皇ではないけれども、その厳しい態度ゆえに支配者層から浮き上がってしまったのではないか、それがゆえに敗者の側に追いやられたのではないかと思いました。
今回も全体の要約にはほど遠いですけれども、とりあえず読了の記録として書いておきます。
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