前回の夜勤のとき、エアマットを敷いてその上に寝袋で仮眠をとろうとしたのですが、下半身が冷気で眠れませんでした。エアマットの下に新聞紙も敷いたのですが、地面に近い分だけやはり冷気の遮断が十分でないようです。
次回からは仮眠する部屋に暖房を入れるか、下半身にタイツもしくはヒートテックの類の物を着るべきなのかな。
それはさておき。
前回、「新九郎、奔る」を楽しく読んでいることをブログに書いて、それをTwitterでも共有したら、著者のゆうきまさみ氏に「いいね」していただきました。
あまりにもうれしかったので、既存の巻は全部購入したので、おっさんが読んで感じたことなどを巻ごとに書いていきたいと思います。今日はまず一巻。
P.4「伊勢新九郎盛時」
前回も書いたように、おっさんは何かで読んだ記憶で「伊勢新九郎長氏」と覚えていたのですが、現在は
諱は長らく不確定で、長氏(ながうじ)を筆頭に、氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などとも伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。
ということになっているみたいです。
堀越公方の茶々丸を撃つための計略として、狩りをしていてどんくさいのでお宅の裏山に獲物が全部逃げてしまいました。つきましては裏山に勢子を入れさせてくださいと詐って、勢子に見せかけた軍勢で堀越公方を撃ったみたいな、いかにも梟雄にふさわしい描写が子どもの頃に読んだ学習まんがでは描かれていたのですが、この「新九郎、奔る」ではどのような筋立てになるのでしょうか?
P.47、P.172
「畠山義就」
実はこの畠山義就、「日本国王と土民」を読んでから、おっさんの中ではちょっとしたヒーローなのです。
「日本国王と土民」P.243
河内に没落した義就は、幕府方の大軍に攻め立てられて南河内の石川谷に逃げ込み岳山城(現大阪府富田林市)の天嶮にたてこもった。
図241注
図表のように、畿内近国の諸大名・寺社勢力を総動員した包囲網が敷かれたが、義就軍の奮闘で3年あまりも持ちこたえた。
上の記述を読んだら、「スゲー」って思いますよね。
河内の地の利を頼んで大軍を迎え撃ったといえば楠木正成ばりですが、楠木正成の有名さにひきかえ、この畠山義就の驍勇をおっさんはこの本で読むまで知りませんでした。
このあたりは河内源氏発祥の地も近く、実際に地形などを見に行ってみたいなと思いつつ、全然果たしていません。
上の出来事は応仁の乱以前のことですが、応仁の乱の終わり頃にも「日本国王と土民」の中で「河内王国」と書かれるぐらいの畠山義就の軍事的才能が発揮されるのですが、そのあたりも多少は「新九郎、奔る」で描写されるのでしょうか?楽しみです。
P.77
「管領」「侍所」
日本史の教科書などで「三管領」として「細川、斯波、畠山」、「四職」として「赤松、山名、京極、一色」を習ったように思うのですが、このページでは、四職として「山名、京極、一色、土岐」が並べられています(つまり赤松が落ちて、土岐が入っている)。
赤松氏は嘉吉の変で将軍足利義教を討ったので、この時期は四職の家柄から脱落して、代わりに土岐氏が入っていたのかな?
P.77、P.105
「蜷川新右衛門」
あのTVアニメ「一休さん」に登場する「新右衛門さん」って、実在する人物だったのですね。てっきり架空の人物だと思っていました。
P.165
正直言って「山内(やまのうち)上杉」とか「扇谷(おうぎがやつ)上杉」とか歴史が好きなので名称(名前?)は知っているけど、この二つの家がどういう関係なのかとか、まったくわかっていないので、今後この漫画でわかりやすく描いてくれると、すごくうれしい。
P.182「上御霊神社」
畠山義就と敵対する畠山政長(尾張守)が上御霊神社に陣を敷いたことについて、新九郎の兄八郎が
「御霊社の祭神がどういうものか知っているだろ?
政争に敗れて濡衣を着せられ憤死した方々だ。たぶん尾張守(まさなが)はそれらの御柱に己をなぞらえているんだ。」
と発言していて、「おお、そういうことなんかい!」と納得させられました。上御霊神社まで行って「応仁の乱発祥地」みたいな碑までみたのに、そんな発想はみじんも浮かばなかったな。
あー、恥ずかし。
P.191「越前守護代朝倉弾正孝景」
織田信長を中心とした時代劇では、優柔不断な噛ませ犬的な役割の越前一乗谷朝倉家の初代当主と書こうとしたら、Wikipediaで否定されていました。
従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのは孝景であると言われていたが、これは『朝倉始末記』という流布本にのみ記載されているもので、他に根拠はない。『親元日記』などの史料により、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明している。
まじか。
以前は「一乗谷朝倉氏五代」みたいな記述を普通に見かけたけど、あれも謬説なのね。
P.204「細川勝元邸」
このページで細川勝元邸に矢倉のようなものが建てられ、堀が掘られている様子が描かれているのですが、「応仁の乱」第三章の「大乱勃発」三節の「戦法の変化」で「井楼の活用」「御構の出現」(P.105~)とあるので、そのようなことがおこなわれたんだなというのは知っていたのですが、漫画というビジュアルで見ると、「なるほどな。こんな平城のようなものが京都の市街にいくつも連なって、まるで小さな城の取り合いみたいになって応仁の乱は長びいたんだな」と納得できます。
P.206「侮られるのは父の代から慣れておる。」
と細川勝元が心の中で一人述懐するのですが、これは勝元の父親、細川持之が嘉吉の変に際して、
これらの混乱を前にして、管領持之はほとんど有効な手を打つこともできず、事変に醜く逃げ出したこととあわせて上下の人々から完全に人望を失っていた。
「日本国王と土民」P.122
と書かれていることを指し示しているんだろうな。
そう考えると嘉吉の変以来上り調子の山名宗全が、嘉吉の変以来ケチがつき下り調子に見える細川氏を政権の中枢から追い落とそうとして応仁の乱を起こそうとしたみたいで、以前の歴史とつながっているんだな。
歴史を知るというのは、そういう因果みたいなものが面白いよな。
なんかまとめ方が下手なのもあって、だいぶ長くなってしまった。
2巻以降も毎日更新したいと思ったけど、時間がかかるので無理かも。
もっと端折ればいいのか。むむ。