邪馬台国の北九州説と畿内説、結局決着を見ないまま、いまだに二論が併記なんだろうか?と先の読書メモでは書いたのですが、
その数ページ後ろに
当時、日本列島各地には多様な政治勢力が存在し、大和盆地には纏向(引用者注:読みは「まきむく」)を王宮とし、日本列島の中心的な権力である倭王権、北部九州には邪馬台国を盟主とする地方王権の倭国連合が併存していたと考えられる。
とばっちり書いてあって、しかも前回読書時に(電子書籍なんで)自分でもはっきりと黄色のラインマーカーを入れてました。
自分の記憶力の乏しさと、古代史に対する自分自身の関心の薄さを露呈してしまいました。
その後、「第二章倭王権の成立」の冒頭では、
大和盆地南東部の纏向遺跡は、それ以前は何もなかった地に三世紀初頭に突如出現し、約百年間経営されて消えていった遺跡である。(略)
この纏向遺跡こそ、東国から西国・朝鮮諸国、そして中国にまで開かれた、初期倭王権の最初の王宮であったことは確実である。
なんて書かれていて衝撃を受けました。
おっさんが子どもの頃、歴史の教科書に纏向遺跡なんて記載されていただろうか?
さらに衝撃的なのは、ここにもラインマーカーを入れているのに、またしてもおっさんが何も記憶していなかったこと。わお、どんな脳みそしてるんだろう。
しかし、ちくまプリマー新書という中学生、高校生向けの新書、入門書にこれだけはっきり書かれているということは、もうこれがほぼ学会の定説なんでしょうね。
知識の更新ができていないと、どんどん置いていかれるなあ。
(更新しても覚えていないのではなおさらですなあ)
あと初期倭王権の盟主の古墳として列挙されている、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳のどれ一つとして名前を知らないこと、かつGoogleマップで開いてみて、奈良県内の地理についての知識がとても乏しいことが悲しかったです。
たしかに奈良市以外の奈良県には全然足を運んだ記憶がないんだよなあ。