昨年(2024年)はベートヴェンの交響曲第九番の初演から200年のメモリアルイヤー。その事自体は知っていたのですが、「ベートーヴェン《第九》の世界」なる新書が出ているのを知ったのはつい最近、2025年に入ってから。
早速注文して3日ほど前から読み始めました。
おっさん、第九のCDはアーノンクールの名演集しか持っていません。
(けっこう値段あがってるなあ)
そこで本書の冒頭で触れられているサイモン・ラトル指揮の第九がないものか、とYouTubeを検索。
するとまさにその演奏そのものが出てきました。
2000年5月7日にマウトハウゼン強制収容所があった場所で演奏された第九。
1945年5月7日に解放されたマウトハウゼン強制収容所の55周年のメモリアルにおこなわれた第九の演奏。
発売されているCDは2010年発売で、著者によると2002年の録音のものでも2000年メモリアルの演奏とはだいぶ解釈が違うみたいなのでネットで聴けるのはありがたいことです。
まだ第4章の途中なのですが、
「超越的存在からの受動的行為と人間存在の能動的行為が一体となり、高まり合うことで、人間存在が見失った始原の世界(エデンの園のような楽園)に到達しうる瞬間」(P.118)
への扉を開くべき音楽としての第九がマウトハウゼン強制収容所跡で演奏されるのを聞いておっさんのようなクラシック門外漢ですら感動を覚えます。
しかし、その哀しい記憶をもつユダヤ民族がいまやっていることはなんなん?
非戦闘員や国連職員、ジャーナリストまで殺して、もはや戦闘ではない虐殺やん。しかも世界がそれを許しているこの状況。
被害者が加害者になって終わらない世界の不幸せ。
ほんまにめちゃくちゃ悲しいなあ。
「出自も考え方も異なる市民たちが、手を携えて新しい社会を創り上げるためには、自身と他者との差異を乗り越えることこそが重要だったからだ。意見の合わない相手であろうとも、それを暴力的に否定するのではない。理性をもってその考えに耳を傾け、今まで自分の中になかった考え方や物の見方を涵養することで、理想的な新世界を生み出せる可能性が開けた。」(P.12)
啓蒙主義における「知性」の重要性を述べた記述ですが、これに尽きるんじゃないか、と思ってしまいます。
そう考えると、理論ははるか彼方にたどり着いているのに、現実社会の人間は1700年代から足踏みした状態なんでしょうか。
CDラックを見直して、小澤征爾のベートーヴェン第九も持っていることに気づきました。聴き比べてみても違いに気づけないほどのクラシック門外漢、「違いのわからない男(byゴールドブレンド)なんですけどね。