またしても、考えさせられたブログ記事の引用。
とはいえ、ブログのシステムがわかってないので、
前回の茂木さんの時も、今回も、 トラックバックの方法がこれであっているのか、
もひとつ分かっていません。
>普遍的な就労支援こそが最大の福祉という哲学
自分は勉強不足で、日本の社会福祉の問題点などがキチンと見えていないのですが、 上の言葉にはなにやら考えさせられました。
>アクティベーション政策一般に対して懐疑的になってしまうと、本来一時的な避難所に過ぎない生活保護が恒久的な生活保障になってしまい、それゆえに行政側はできるだけ入口で入れないように、入れないようにと、あの手この手を駆使するという悪循環に陥ってしまう
引用記事の中にもあったように、 就労しているシングルマザーが、非就労のシングルマザーよりも貧困であるなど、 「働かざるもの、食うべからず」より過酷な「働いているのに食えない」現実。
こういったことが改められるように、 不正規労働に就かざるを得ないシングルマザーを、 正規労働に導けるような政策が求められますよね。
かといって、働いていないシングルマザーを「怪しからん」とも思えないのです。 乳飲み子抱えて働くのは難しいですし、 子どもが小さい間は、生活保護なりで十分に保護して、 もう一度、労働力として、労働市場に再包摂できるような社会であればいいわけです。 但し、ここでの労働市場への再参加も、 働かない方が収入が多い、というような状態であれば意味が無いわけですよね。
>働けるのに福祉に依存する者がある程度存在するが、欧州と比較すればネグリジブルであろう」
「ネグリジブル」とは「感化できる環境、無視してよい」という意味だそうです。 「無視してよい」という根拠がどの辺なのか、 自分で勉強することは必要でしょうが、 本当に日本はこのあたりで、社会福祉の制度を再構築しないとダメになってしまうのではないかと思います。
わたし自身は、 ヨーロッパ型の社会構造をモデルとした再構築をして欲しいと思って、 政権交代に期待して民主党に昨年は投票したのに、 全然そうならず、アメリカ型に偏った新自由主義的な社会に向かっているようで、 いまの民主党政権には大変な不満を覚えています。 政治家任せではなく、 もっと有権者である私たち一人ひとりが考えていかねばならないのでしょうね。
引用記事URL http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-47d3.html
以下、記事引用。 引用部分青色。 引用内引用は赤色。 強調などはなるべく原文のまま。
アジア太平洋資料センターの雑誌『オルタ』の9/10月号は、特集は「韓国併合100年」ですが、これではなく、湯浅誠氏の「反貧困日記」という新連載についてひと言だけ。 興味深いのは、湯浅氏が北欧は福祉国家だから人を働かせようなんてする国じゃないというイメージを持っていて、それが行ってみたらそうじゃなかったと、いささかとまどっているらしいところです。
>イギリスでもデンマークでも、訪問する先々で、私は「とにかく仕事」というメッセージを受け取り続けた。イギリスではすべての中高生の在籍データを行政機関が共有し、学校に来なくなった子どもなどの情報を地域の若者担当部局に提供、ソーシャルワーカーの家庭訪問やユースワーカーの本人対応に結びつけていた。失業者は、日本のハローワークに当たるジョブセンタープラスでの定期的面接を義務づけられており、若年者は一般失業者に比べてより厳しいプログラムへの参加を求められていた。・・・ >もっともこの点は、デンマークにおいてもあまり変わらず、それは私を混乱させた。北欧型の高福祉国家は、もっと違ったモデルでやっているはずではなかったのか?
もし、働けるのに働かなくても福祉でぬくぬく、という福祉国家のイメージを追い求めていたのだとすれば、それはやはり見当はずれだったといわざるを得ないのでしょう。
>ジョブセンターでは若年失業者と、なるべく早期にコンタクトをとり、企業実習を軸とした半年間の就労支援コースに乗せることに努力していた。教育課程でも、学校と連繋してドロップアウトした子どもの情報を把握するシステムが機能している点はイギリスと同じだった。その子どもたちのためには、「生産学校」と呼ばれるリハビリ施設、「職業訓練センター」「職業訓練校」など、多様な受け皿が用意されている。逆から言えば、「逃がさない」ということでもある。
もともと企業以外に受け皿がほとんどなかった上に、その数少ない受け皿だった職業訓練校を片っ端から破壊することを使命と心得るような政治家やエセ学者が跋扈するのが日本ですからね。 日本はもともと過度に企業中心的な形でワークフェア的だったために、そこからこぼれ落ちた人々をとにかく生活保護で救うという湯浅さんたちの活動は社会的メッセージとして重要な意味があったわけですが、だからといって「とにかく仕事」という方向性自体が間違っていたわけではないし、それこそ、宮本太郎先生の本を一読すれば、北欧諸国がもともときわめて普遍主義的な形でワークフェア的であったことが窺われます。
>私にとって正しい問いの立て方は、なぜ「福祉から就労へ」と「社会的排除から社会的包摂へ」という二つのスローガンが両立するのか、というものであるべきと思われた。
それこそまさに、1990年代以来のEU社会政策とは、北欧型モデルに沿って、労働市場からの排除を最大の問題ととらえ、労働市場への包摂を最大の解決策ととらえる考え方なのですから、両立しないとしたらその方が遥かにおかしいわけです。 そして、何より重要なのは、次の一節。
>しかし他方で、デンマークにおける日本経団連に当たるDIの担当者が「私たちには、高福祉国家を手放さないという国民的合意がある」と真顔で語ったりもする。
「真顔で語る」という言い方自体に、湯浅氏の「経営者が福祉国家を守るなんて・・・」というとまどいが感じられますが、それこそ、普遍的な就労支援こそが最大の福祉という哲学の現れとして「真顔」で受け取るべき言葉でしょう。 この辺の言葉が、右にも左にもいっこうに通じないのが、現代日本の最大の閉塞の原因であるわけですが。 デンマークといえばパワハラ社長が好き放題にクビ切り自由のパラダイスとしか心得ない一部の経済評論家はともかく、湯浅氏にはしっかりとした認識をもって活躍していただきたいと思います。 (追記) ちなみに、湯浅氏がワークフェアに対してよい印象を持っていないことには、それなりの理由があります。
>しばらく前から、日本でも「福祉から就労へ(Welfare to Work)」または「ワークフェア(Workfare)」という言葉が語られるようになった。福祉サービスに就労支援を絡めるという意味だが、バランスを間違えると、実際には働けない人たちを無理矢理福祉サービスから放逐することにもなりかねない。特に日本のように生活保護のマイナスのレッテルの強い国では、生活保護を受けているシングルマザーを労働市場に放り出すといったニュアンスを伴う危険性が高く、私はこの言葉に余りよい印象は持っていなかった。
日本でワークフェア的政策が最初に導入された時の経緯を踏まえると、湯浅氏の警戒感にもまったく根拠がないわけではないのです。 この点について、今から3年近く前の2008年12月11日に、OECDの各国のアクティベーション政策のレビューチームが来日した際に、わたくしから詳しく説明したところです。 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/oecd-dd50.html(OECDアクティベーション政策レビュー) とりわけ、その時に強調したのは、日本のワークフェア政策の先頭を切ったシングルマザーに対する政策の倒錯についてでした。
>このような文脈の相違を無視して、欧米のアクティベーション政策をそのまま日本に持ち込んだ実例が、シングルマザーに関する政策である。
日本では、2000年頃から欧州における社会的包摂の議論が紹介され、政府においても検討が始まった。しかし、その第一歩として取り上げられたのは、公的扶助受給者に対するものではなく、シングルマザーに対するアクティベーションとそれに伴う児童扶養手当の削減という政策であった。 日本では、諸外国に比較して、シングルマザーの就業率が極めて高く、一貫して80%を超えている。しかしながら、家庭責任を抱えた彼女らは長時間労働を要求される正規労働者として就労することは困難であり、その多くは低賃金の非正規労働者として就労している。このため、日本のシングルマザーの貧困率は極めて高く、しかも非就労のシングルマザーよりも就労しているシングルマザーの方が貧困であるという逆転現象が起こっている。 このような中で、(あえて公的扶助に頼らない)低賃金のシングルマザーの所得補填機能を果たしてきたのが月額5万円弱の児童扶養手当制度(子供が18歳まで支給)であり、欧米の文脈で云えば、むしろアクティベーションに伴う就労インセンティブとして導入される在職給付的な意味を持つものであったといえる。 ところが、2002年の法改正は、欧米のアクティベーション政策をこの児童扶養手当制度に適用し、所得保障という消極的政策から就労による自立をめざす積極的政策への転換を図った。就労を拒否した場合の支給停止が規定されるとともに、児童扶養手当の受給期間が5年を超えると減額されることとなり、一方、シングルマザーに対する様々な就業支援策が講じられた。しかし、上述のように既に日本のシングルマザーの大部分は就労しており、しかもその生活状況から低賃金の非正規就労に陥っているのであって、このようなアクティベーション政策は的が外れていたと云うべきである。 こういう経緯などもあり、湯浅氏が日本で行われるワークフェアに懐疑的になることにはまったく理由がないわけではないのですが、さはさりながらそれゆえにアクティベーション政策一般に対して懐疑的になってしまうと、本来一時的な避難所に過ぎない生活保護が恒久的な生活保障になってしまい、それゆえに行政側はできるだけ入口で入れないように、入れないようにと、あの手この手を駆使するという悪循環に陥ってしまうわけで、こういう意図したあるいは意図せざる誤解のゴルディアスの結び目を解きほぐして、まっとうな議論を展開していくことこそ、内閣府参与として政策形成に責任を有する湯浅氏に期待されるところであろうと思います。 ついでながら、上記OECDのアクティベーション政策レビュー報告書は、既にノルウェー、フィンランド、アイルランド編が公表され、日本編も今秋には公表される予定です。その日本編はわたくしの翻訳により出版される予定ですので、関心のある皆様方はしばらくお待ち下さいますよう。