P.36
白河殿は白河上皇・鳥羽上皇の御所として、院政を象徴する邸宅であった。崇徳が白河殿に入った理由はこの点にあろう。崇徳は、自分こそが白河・鳥羽の後継者として調停の中心にいることを貴族に訴えかけ、後白河に対抗しようとしたのではないかと考えられる。
このように、崇徳の白河殿入りを貴族の支持を得るためで、挙兵目的ではないとしていることや、
P.38
この合戦は、戦闘で死んだ者は一人もいない。つまり、戦闘らしい戦闘はなかったとみられる。十一日の朝、攻撃は白河殿に火を放ち、全員を追い出して終了した。
と保元の乱での戦闘をほぼ否定するなど、おっさんが従来見てきた保元の乱の解釈とはかなり異なる点が目に付きます。
また、保元の乱についての評価も、
P.39
この保元の乱は、崇徳・後白河・忠実・忠通の四人だけの事件であった。「正統」二条(皇太子)と大多数の公卿は、この事件に全く姿を見せない。(略)崇徳と後白河はもともと「正統」から外れているが、本来は本流にいるべき摂関家も本流から外れてしまった。保元の乱はこの傍流化した四人が脇道を暴走して引き起こした事件である。
という評価で、
白河院政以降、国家中枢に集積してきた矛盾のすべてを武力によって解消したのである。(『平安王朝』P.208)
と書く『平安王朝』なんかとは、全然違う評価を下しています。
著者が保元の乱で問題としているのは、
P.40
問題は摂関家にある。骨肉の争いは摂関家の権威を貶め、忠実も忠通も貴族の信任を失い、貴族を結集する力を失っていた。(略)あるべき姿とは打って変わり、摂関家は自ら朝廷に混乱をもたらす主因となった。
と述べ、保元の乱の大きな原因を摂関家に求め、摂関家が立ち直るかどうかを、この後の朝廷再建の問題点としています。
この本、買ってからしばらく積んでおいていたのですが、実に面白いです。
通説とちがうというだけでは、単なるトンデモ本の可能性がありますが、一々腑に落ちる感じです。ただ、おっさんが記述に真に根拠があるのか、一次資料を見て真偽を確かめる能力がないことが残念です。