おっさん、大学ノートに9ページにわたり読書メモをつけながら読了したのですが、終章の「応仁の乱が残したもの」にきれいに著者がまとめられており、わざわざ読書メモをつける必要がなかったなと反省。
以前、「読書メモは再読時につけるものであって、初読時につけると重要点がわからずいたずらに煩雑になる」と誰かが書いていたのを思い出す。
ああ、おっさん、進歩がないなあ。
でも、ついついやってしまうのよね、初読時の読書メモ。
応仁の乱がなぜ起こったのかというのは、
②山名宗全をリーダーとする集団
③細川勝元をリーダーとする集団
の三つの室町幕府内の政治集団のうち、①が文正の政変で失脚したことにより、②、③勢力の対立が起こったこと。
②、③勢力による対立も応仁の乱という大乱に至らず、政治的に解決する余地があったが、山名宗全が畠山義就(山名方)が畠山政長(細川方)を撃った御霊合戦に介入した結果、大名連合の盟主として細川勝元も面目を保つために応戦せざるを得なくなったというなりゆき的な要素が大きい。
それぞれの勢力(連合)に参戦した大名が、それぞれに自分の納得できる成果を求めたために、講和がまとまらず、乱は長期化した。
応仁の乱の結果、守護大名が京都に在京し室町幕府の政治に参加する守護在京制が崩壊し、奉公衆(将軍の親衛隊、武官)、奉行衆(文書行政を取り仕切る文官)という上記①勢力に類似する、流れをくむような勢力が、室町幕府内で相対的に存在感を高めることになった。
しかし、明応の政変が起こり、幕府の権威が失墜し、戦国時代へと移っていくことになるが、明応の政変の結果である、「二人の将軍」の並立の常態化は、応仁の乱での西軍(西幕府)、東軍(東幕府)という事態の延長線上にある。
「二人の将軍」体制が、おっさんが昔こころをワクワクさせて読んだ、堺幕府論につながっていくので、おっさんは手元にある今谷明の本をひっぱり出してきて再読しようかと思ったりしますが、いま手元にある読みかけの本が他にもたくさんあるので、いつになったら読めることやら。
堺幕府はおっさんが、堺で育ったのでワクワクするというのはあるのですが、それに加えて母方の出身地、阿波(徳島)で連綿と続いていった平島公方に感傷的な親近感を抱いているというのが大きいですね。
原付で南海フェリーに乗り、三好氏や平島公方にゆかりのある地を訪ねてみたいなんて思ったりもするのです。
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2024年2月14日:リンク修正