「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

「創造的」とはなんだろう?

おっさんが何度か書いていたように、職場ではレクリエーションの一つとしてカラオケをおこなっています。

 

 

で先日職場の上司から、「カラオケもいいけどもっと創造的なレクをおこなうように」との指示があったらしいです。

 

 

ただ、創造的なことをおこなう意志を持っているような、ある程度体や心の自由、余裕があるような人は、作業所に通ったり施設内の報酬を得られる作業に参加したりしているんですよね。

 

 

つまりは、そういったことに参加できない人が残っている状態でおこなえる「創造的」なことってどんなことなんでしょう。

 

 

実は以前にも同じような指示があり実行していた時期があります。

計算問題やひらがなをなぞり書きをしてもらったところ、数字が読めない入所者さんやひらがなも書けない入所者さんは、すごく嫌そうな顔をして二度とやりたがらなくなってしまいました。

 

 

塗り絵をしてもらったりもしたのですが、女性はともかく男性はあまり塗り絵を好まれないですし、施設には共用の色鉛筆は1、2セットしかないので、そのために色鉛筆を買う余裕があり、かつそれなりに興味が持続する人でなければ、無駄になってしまいます。

 

 

オセロだと対戦者2人の入所者に対して、一人の職員を配置せねばならず、到底それに見合うだけの人員(職員)を配置できません。

 

 

なので、「創造的」なことをしろではなく、具体的に「〇〇しろ」と言ってもらえればいいのにと思います。そうでなければ、今度は折り紙で失敗したとすると、「折り紙というレクを選択したことが(あるいはそれを選定したあほな職員が)間違っていた」という評価になってしまうと思います。

 

 

でも、実態は「創造的」なことに向いている入所者がいない(少ない)状態で、それをよかれと思って推進すること自体にあると思うんですよね。

 

 

だいたいなぜ「創造的」なことをせねばならないのでしょう?

「創造的」なことをする人生が、より人間らしいから?

では、創造的なことをしていない人間は、人間らしくないのでしょうか?

 

 

それって、突き詰めれば、「知的でない人間には価値がない」とか「生産的でない人間には価値がない」という思想に繋がっていくことを、施設の上司は認識しているのかな?とおっさんは正直思ってしまいます。

 

 

「入所者本人がしたいと思っていてできない」のなら施設の怠慢ですが、「したいと思っていないことをさせる」のは、それがどれほど「知的」で「創造的」であっても苦役以外の何物でもないのではないでしょうか?

 

 

意地悪なことを書くと、職員の中に「わたしは知的で創造的な生活をしています」と胸を張って言える人は何人いるのだろう?少なくともおっさんは、とてもじゃないけど、そんなこと言えないな。

 

 

職員ですらそうではないのに、入所者にそれを求めるというのははっきり言って無理があるのではないでしょうか?