P.34
承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命じる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、倒幕ではない。
P.35
義時の姉政子は、簾下に御家人を集め、安達景盛を介して言葉を伝えたが、その言葉は、義時の蒙った「逆臣」の汚名を御家人全体が蒙ったことにすり替え、「名を惜しむのやから」に団結して反撃することを呼びかけるものであった。
これと同じような主張は、「承久の乱」(中公新書)でもおこなわれていて、
後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、倒幕でも武士の否定でもなかった。それは、院宣に義時の「奉行を停止」し、すべて「叡襟に決す」と記していることからも明らかである。
北条義時一人に対する追討を、三代にわたる将軍の遺産「鎌倉」、すなわち幕府そのものに対する攻撃にすり替える巧妙さがあった。
と書かれています。
反対にそうではないとするのは、「承久の乱」(文春新書)。
「承久の乱」(文春新書)P.170~P.171
後鳥羽上皇の命令に「義時を討て」とあることを捉えて、後鳥羽上皇は北条義時を排除することだけが目的で、鎌倉幕府の存在そのものを否定したわけではないという説があります。しかし、私はこの説は成り立たないと考えています。
そもそも冒頭でも論じたように、この時代、「幕府」という言葉自体がないのです。統治の主体だと考えられていたのは、システムではなく、あくまで「人」、すなわち最高指導者とそれを支持する人々でした。
だから、朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです。たとえば以仁王の令旨には「清盛法師ならびに従類の叛逆の輩を追討すべきの事」と記されており(略)、後醍醐天皇が下した倒幕の命令書にも倒すべき相手は「平時政(北条時政)の子孫」とされていました。
ちなみに「執権」は、
「執権」P.85
後鳥羽のうまいところは、倒幕とはいわず、義時の追討のみを命じたところである。(略)この宣旨によって幕府が義時派と反義時派に分裂して内戦を起こし自壊することを狙ったわけである。
と倒幕の中の策略として北条義時のみに的を絞ったと判断しています。
素人のおっさんとしては、倒幕の兵との説明のほうが、より納得がいきます。
幕府をコントロール下に置く
ということは独立政権的な鎌倉幕府は、敗戦したならば消滅していただろう(後鳥羽政権下の一部門として朝廷の元に置かれるようになる)から、結局倒幕と同じことになるのでは?と思ってしまいます。
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