「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

読書メモ「古代日中関係史」の1

 

古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで (中公新書 2533)

古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで (中公新書 2533)

 

 

 

P.148~149

 第七回遣唐使からは、壱岐対馬から朝鮮半島に至り、その西岸に沿って北上する従来の航路(北路)ではなく、五島列島より東シナ海を渡る航路(南路)が利用されはじめた。この頃、新羅との関係が悪化し、その沿岸部を北上することができなくなり、南路が利用されはじめたと説明されることがある。

 しかし七〇〇年前後、さまざまな問題をはらみながらも、新羅ー日本間の政治交渉は継続されていた。加えて、唐の冊封を受ける新羅が日本の朝貢を阻害するかも疑問である。

 

 

おっさんもこの新羅との関係悪化で朝鮮半島沿岸を航行できなくなった説をなにかの本で見て信じていたなあ。

 

 

P.149

当時、中国、特に長江河口地域への足がかりとなる五島列島の重要性が認識されはじめていたという面を考慮するべきであろう。

 

 

 

ただ、五島列島に重要性があったとしても、遣唐使は優秀な人材を唐の文化を吸収する目的で送りこむのだから、船が難破して人材を失う可能性が少しでも減らせる北路がなぜ選択されなかったのだろうという疑問は残りますよね。

 

 

P.143

遣唐使はその最初期から、特殊な事例(白村江の戦後処理や唐使を送る使者、藤原清河を迎える使者など)を除けば、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。この点を重視するならば、山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の、一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。

 

 

 

それにそれほど重要な使節ならば、なおさら少しでも安全な航路のほうがいいと思うんですけどねえ。

 

 

読み進むと疑問は解消されるのかしら。

 

 

古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで (中公新書 2533)

古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで (中公新書 2533)