「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

タバコ1本のことで暴力を振るわれても知らんでと言われる福祉の従業者ってなんなんだろう?

おっさんの務める施設は、入所者のうちでタバコを吸う方がいらっしゃいます(タバコの本数、回数は制限されるんですけどね)。

 

 

ただし、健康状態の優れないときは、喫煙自体を制限されることになります。

 

 

先日、発熱等で喫煙を制限されていた入所者さんが、朝一番のタバコを吸いに来たけれども、医務の出勤前で喫煙開始の許可が取れなかったため吸えずに職員と揉めたそうです。

 

 

その事件について、生活指導の主任は「臨機応変に認めるべきだった」との主張で、そういう臨機応変さがないと、入所者が怒って暴力を振るっても「しらんで」との意見だったそうです。

 

 

それを人づてに聞いて、おっさんはげんなりしました。

 

 

以前、自営の仕事をしていた際にまちづくり協議会で障害系の福祉施設の経営サイドの人間が「2、3年は給料もらわなくても仕事したいというぐらいの人間でないと務まらん」と言ってるのを聞いてげんなりしたとブログに書いた記憶があるのですが、そのときと同じげんなりさです。

 

 

タバコ1本が思ったように吸えないからと暴力を振るうような人が、(施設の外の社会で)きちんと暮らしていけるんでしょうかね?

 

 

その前に施設というのは、社会から隔絶した独自のルールが働く場なんでしょうかね?

 

 

一般社会で暴力を振るうと犯罪になるように、ここも例外ではないと諭すのが生活指導というもんなんじゃないんでしょうか?

 

 

それに自分(生活指導の主任)は暴力の対象外であるというような「自分と他の職員は違う」みたいな考え方でうまくいくもんなんでしょうかね?

 

 

なんやろう?

福祉の仕事をしていると、入所者(利用者)は人間だけど、従業者は人間じゃないと思ってしまうのは、福祉の仕事の通弊なんでしょうかね?

 

 

それに意地悪な話、現場の臨機応変な判断ですべて判断していいのなら、極端な話、上司なんか要らないので、「お前要らんやんけ。給料返上しろ」と言いたくなるんですけどね。

 

 

暴力の容認、暴力の肯定なんか、この日本という法治国家のどこで許されるのだろうと話を大きくすると思ってしまいます。しかも、タバコ1本のことで。

 

 

タバコ1本のことで暴力を振るわれてもしょうがないと思われる福祉の従業者って、それは人間と呼べるのだろうか?

 

 

あの人は暴力を振るわれない権利を持っているけど、この人は暴力を振るわれても仕方がないって、もう人が平等に扱われてないよな。人をなるたけ平等に扱っていこうというのが本来の福祉の目的のはずなのに。

 

 

あーあ、嫌だねえ。

おっさんが暴力を振るわれたら、「臨機応変」な判断で警察に電話しようと思います。そうすれば、その主任も目が覚めるんでしょうかね?いやー、無理だろうな。