「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

天下三不如意、賀茂川の水について補足

先日、ここで、『「平安王朝」読書メモ』という文を書いたのですが、

 

oldtypeossan.hatenablog.com

 

で、思ったのは、白河院が言ったとされるいわゆる「天下三不如意」(てんかさんふにょい)、「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師」すべて意のままになる白河院でもこの三つは意のままにならないということなんですが、 高校の日本史で習ったときや、この本を読んだときも特別気にならなかったのですが、いま読んで思うは、 「最高権力者なら、賀茂川の治水工事をすればいいじゃないか」ということです。 中国の権力者なら、人気取りにもなりますし、治水工事をすると思うんですよね。 治水工事をするという発想がなかったのか、技術がなかったのか、お金がなかったのか、いずれにせよ、最高権力者というには小さいなと思ってしまうのは自分だけでしょうか?

 

 

と書いたのですが、 朝廷としても、洪水対策をしようという意志はあったようですね。 別の中世史の本を読んでいた際に、登場人物の藤原顕隆を検索したところ、 彼についてのウィキペディアの記事の中に、 「防鴨河使」なる官歴があるのを発見。官職要解で調べてみたところ、

 

防鴨河使…ぼうかしとよむ。鴨の字は省いてよまぬ例である。なが雨が降ったときは、鴨川に出水して損害をうくることがしばしばであったから、臨時にこの役をおいて、堤防の崩壊したところなど修繕して浸水をふせがせた。『夫木抄』に「かも川をふせぐ司(つかさ)もこころせよつつみくづるるさみだれの頃」と見えている。長官一人、判官、主典各二人で、検非違使の佐・尉・志などをもって任じたのである。

 

 

新訂 官職要解 (講談社学術文庫)

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との説明がありました。 藤原顕隆は白河院政期の人物ですし、いちおう治水しようという意志はあったが、 資金なり、技術なりの問題でできなかったのだということで、多少は納得しました。 ただ、「寺社勢力の中世」の中世京都地図(P.35)によると、 鴨川の堤防は、一条から四条坊門までで、 これだと二条以南のいわゆる下京は大雨が降るとあっという間に水浸しですよね。 堤防を延長しようという気はなかったのでしょうか。 上の中世京都地図と本文中の記述によると洪水の危険地帯は、東洞院通あたりまで拡がっていたとのことで、 いまの四条通でいうと

 

 

大きな地図で見る

 

大丸京都店の西の通りまでが、 大きな意味での鴨川の河原のような状態だったということなので、天井川の鴨川をもてあまして、「貧乏人が住んでいるような河原などしらん。いやなら別のところに住め」ぐらいの感覚だったのでしょうか。

(ちなみに、河原とされる地域にもたくさんの人家が立ち並び、流水量が少ない時期には、その建物を伝って鴨川を渡って火事が延焼する様子だったそうです)

 

京都市の歴史資料館の関連ホームページ上でも、

寛文9(1669)年鴨川両岸に新しい石堤の築造が開始され,翌年完成しました。この石垣を寛文新堤(かんぶんしんてい)といいます。この護岸工事が行われるまでは,鴨川は左右に河原が広がる自然河川でした

 

 

と鴨川は中世期はほぼ堤防がない状態であったと記述されています。 こんな状態で、 白河法皇に「おれは京都という都市の王様で、思いのままにならないことなど三つしかない」 と威張られても納得しがたいのですが、 あたり前ですが、これはいまの感覚から見ればということで、 為政者も庶民の側も、これが京都の普通の姿だ、ぐらいの受けとめ方だったのかもしれませんね。 水害がでれば、衛生面でもとても問題があるでしょうし、「普通」と受けとめるにはあまりに過酷な「普通」なのでしょうが。

 

 

ちなみに、上記「寺社勢力の中世」と同じ著者の「無縁所の中世」は、 ものすごく興味深く、日本の中世を見る目が180度変わると言いたくなるぐらいの本です。 機会があったら、また感想文なりメモなりを書きたいと思います。

 

 

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

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無縁所の中世 (ちくま新書)

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2017年6月5日:いろいろ修正