「まなさんと一緒」の日々

一緒に暮らしている、猫のまなさんとの日常を記していきたいと思います。

「平安王朝」読書メモ

岩波新書の「平安王朝」という本を読み返してみました。 他の中世の寺社勢力について書いた本を読むときに、 院政期の流れがちっとも頭に入っていないので、 いまひとつ内容がすっと入ってこないので、 平安時代を大きく取り扱っているこの本を再読してみました。 他にも平安時代の本を持ってはいるのですが、 他の本は、摂関政治の最盛期(道長・頼通)で終わって、 院政期は次の巻でといった感じで描かれていないのです。 で、読み返してみるとやっぱり頭に入っていない。 おいおい、ちょっとずつ覚えるしかないですね。 で、思ったのは、白河院が言ったとされるいわゆる「天下三不如意」(てんかさんふにょい)、 「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師」 すべて意のままになる白河院でもこの三つは意のままにならないということなんですが、 高校の日本史で習ったときや、この本を読んだときも特別気にならなかったのですが、 いま読んで思うは、 「最高権力者なら、賀茂川の治水工事をすればいいじゃないか」 ということです。 中国の権力者なら、人気取りにもなりますし、治水工事をすると思うんですよね。 治水工事をするという発想がなかったのか、 技術がなかったのか、 お金がなかったのか、 いずれにせよ、最高権力者というには小さいなと思ってしまうのは自分だけでしょうか? ずっと時代は変わりますが、 釜無川の治水は武田氏という一地方政権が成し遂げているわけですよね。 そのへんがどうも納得いかないのです。 次に「へぇ」と思いつつ、「あれ?」と思ったのは、 白河院が皇子に父後三条天皇にちなんで「善仁(たるひと)」と名付けて、以後天皇の諱(いみな)に 「仁」の字がつけられるのが恒例になり、現在に至る。 大略して上のような意味の文があり、納得したのですが、 パッと例外として浮かんだのが、後醍醐天皇とその皇子たちなんです。 後醍醐天皇は諱がたしか「尊治(たかはる)」、 その皇子たちは大塔宮が「護良(もりよし)」、        征西将軍宮が「懐良(かねよし)」でみな「良」の字がつくはずなんですよね。 これは何か意味があるんだろうか。 前後の天皇や皇子の諱を知らないので、なんとも言えないですが、 「仁」の字がついていない例外なのは、なぜなんでしょうね。 他に面白いと思ったのは、 平安時代の最初に早良親王に追贈されたのが、「崇道天皇平安時代の終わりに讃岐院に追贈されたのが、「崇徳天皇」 で共に「崇」の字をもつのですが、 この時代より前に「崇」の字を含む天皇は、 「崇」神天皇「崇」峻天皇のお二人。(手書きのメモで確認しただけなので間違いがあったらごめんなさい) のちに「崇」の字をもつのは、南北朝合一前の北朝「崇」光天皇崇峻天皇は、天皇として唯一臣下に害された天皇ですし、 崇道天皇崇徳天皇は共に怨霊となってたたりをなしたといわれる方、 崇神天皇はべつとして、 吉例が1、不吉な例が3というこの状況で、 「崇」の字をいただいた崇光天皇。 ほとんど印象がない方だけに新たに気になったりします。 まとまりがないですが、読書メモとしてつけておきたいと思います。