ぷち瞑想?ぷち坐禅?
最近、毎日というわけではないのですが、
朝と夜もしくはそのどちらかに、
瞑想?というか坐禅?というか、
お布団のマットの上で足を組んで、1回につき3分間座ってます。
なぜ、そんなことを始めたかというと、
知っている人は知っているんですが、
見かけによらず?見かけどおり?に気が短いところがあって、
感情を「自律」しようと思って始めたわけです。
もともと、小学校の通知表の短信欄には
常に「短気を治しましょう」と書かれていたほど気が短かったのですが、
大学生活と、その後のグータラ生活で治したつもりでいたのですが、
前職といまの生活がいけないのか、
すっかり短気な気持ちが戻ってきて、感情のコントロールに苦慮する時が出てきました。
治そうという意志がある証拠に「自己変革の心理学」なんて本をイライラがひどすぎるときには読み返したりしていたのですが、
おっつかないので、
新たにぷち瞑想、ぷち坐禅を始めたわけです。
なぜ、瞑想、坐禅なのかはあまり深く突っこまないでください。
いま手元にないのですが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のなかで、
瞑想、坐禅をほめていたシーンがあったように記憶しているのと、
もともと、うちの実家が曹洞宗で、
一時は本当に永平寺に行って修行してお坊さんになろうかと、
「一瞬だけ」考えたことがあるせいかもしれません。
で、それをはじめてから「辺境ラジオ」というポッドキャストを聴いていると、
その中で名越先生が、
「瞑想やってうまくいったときには、風呂上りに腰に手をあててラムネ飲んだ時ぐらい気持ちいい」
と言ってたので、とびとび、ぼちぼち続けている状態です。
でも、個人的には、
そんな気持ちのいい状態にはなったことがないです。
先日、一度だけ「自律、自律、感情のコントロール」なんて考えながら始めたあとで、
一瞬だけフッと何も考えずに空白になった時間があって、
「おっ、いまのよかったんちゃう!」
と思ったのですが、本当にあれは良かった状態なのか。
禅でいうところのいわゆる「野狐禅」ってやつかもしれんなとも思ったりします。
まあ、ぼちぼち自己流、無手勝流でつづけていくつもりです。
ちなみに宗教に目覚めたわけではないので、勧誘なんかは結構です。
それどころか皆さん、カルト宗教には十分注意しましょう。
そんなわけで「Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から―」にリンクしておきます。